TEA and COFFEE Trade Journal

■ 1999年6月号掲載記事 /アイルランド人の紅茶

Introduction:

アイルランドは、世界で最も、国民一人あたりの紅茶消費量が高く、年間3.2kgにも及びます。紅茶の飲まれる環境も、また、アイルランドは世界で最も良いとされ、それは現在も発展し続けています。紅茶のことに関しては、まさに、アイルランド国民は最も認識があるといえるでしょう。実際彼らにとって、紅茶の味や外観の質は、まさに強迫観念に駆られるがごとく重要であり、質の悪い茶は、それがどんな値段であっても売れないのです。 第二次世界大戦前、アイルランドで消費される茶のほとんどは英国から、ロンドンのオークション又は個人取引で、購入されていました。しかし、大戦が全てを変えてしまったのです。

戦争と配給:

戦争が始まると、農業水産食糧省が、茶の全てを監視下に置き、これは1939年9月から、1952年の配給制度が終了するまで続きました。茶の価格は管理され、1936年から1939年6月30日までの、各卸業者の購入量に応じて、それぞれ配分されました。当初、この配分は、基準量の100%でありましたが、その後、戦争が茶の輸送代を搾取するにつれ、配分量は徐々に減少しました。しかしながら、大戦の初期は、アイルランドの国民一人あたりの配給量は、英国と同じ量でした。しかし、これは長くは続かなかったのです。アイルランドは、中立を宣言し、英国軍隊による、港や戦艦の使用を拒否したのです。1941年、その報復として、アイルランドへの茶の分け前は、ほとんど0にまで減らされました。英国が一人あたり2.5オンスであったのに対し、アイルランドは0.5オンスでした。

アイルランド政府は、行動に出ることに決めました。1941年7月8日、茶輸入株式会社が設立。これは、茶を直接生産国から買い付けるためです。この会社は、政府からの援助を得ていました。アイルランドは独自の艦隊を持たず、政府が直ちに手配をしましたが、茶の輸入は困難を抱えていました。しかしながら、大戦の間、立派に役目を果たしました。ほとんどの茶の輸入は、その当時アイルランドブレンドのベースとなっていたインドからでした。アイルランド政府は、その後英国に、茶の供給に対して二度と頭を下げて依頼することはありませんでした。また、1973年にヨーロッパ共同体へ加入するまでは、茶を原産国以外から輸入することは、違法とされていました。もし、どうしても他の国を通って輸入する必要があった場合は、必ず、ダブリンの船荷引替証を通さなければなりませんでした。

輸入監視の続行:

1958年、アイルランド政府は『茶条例(購入及び輸入に関する)』を可決しました。この条例のもとで、1958年6月2日、新しい茶会社、TEA IMPORTERS株式会社(1958)が組織され、アイルランドへの茶輸入に関する、独占的な権限を持つに至りました。この新しい会社と従来の会社との違いは、従来の会社は、政府によって保護されていましたが、この新会社は、いくつかの私有会社(卸業者、ティー・ディーラー協会)が株式を所有していたことです。政府はこれらの貿易を援助するため、TEA IMPORTERS株式会社(1958)に、金融取引の免許をを与えました。これは後に、大変な価値を持つことになりました。新しい取り決めのもとでは、全ての茶輸入会社は、好きな茶を買うことが出来ましたが、必ず茶生産国からの購入に限り、また、TEA IMPORTERS株式会社(1958)の船荷引替証を通すこととなっていました。これは、いかなる茶も、ロンドンから、又はロンドンのオークションから、又は個人的に、又は、その他のヨーロッパ諸国から購入することは出来ないことを意味しています。

英国とアイルランド茶貿易の疎遠化:

これらの諸事情の末、アイルランド茶貿易は、独自に発展しつづけ、英国のそれとは違った性質のものとなりました。この違いは、それぞれの消費される茶のタイプや品質に現れることになります。全体的に見て、アイルランドの茶の品質のほうが高く、英国では、細かい葉の『ファニングス』が最も多く使用されていたのに対し、アイルランドでは『ブロークン』級の葉が大半を占めていました。

ECC加入:

1973年1月、アイルランド協和国は、ヨーロッパ経済共同体へ加入し、それに伴い、独自の条例(茶条例など)は、このEECの規則にそぐわなくなりました。そのため、この条例は廃止されます。それ以後は、アイルランドの茶会社は、どこからでも茶を購入することが出来るようになります。1986年6月13日、TEA IMPORTERS株式会社(1958)は貿易を止め、金融免許を使って『アイリッシュ商業銀行』という名の銀行を設立しました。そして、茶貿易としての正式な役割は終焉したのです。

状況の変化:

TEA IMPORTERS株式会社(1958)が設立されたときは、50社以上の会社が、株主として参加していました。(全てのメンバーが、アイルランド卸茶取引協会の会員でした)しかし、1998年までには、10社足らずが、茶貿易に携わっているのみとなっていたのです。1960年代から70年代を通して、継続的に倒産や合併が行われました。最初の重要な合併は、7社でした。

  1. Baker Wardell
  2. T.W. Begge
  3. J&G Cambell
  4. W.M. Hogg&Co.
  5. Joseph Garratt & Co.
  6. henry Pattison & Co.
  7. Robert Roberts Ltd.
これらの会社で、『アイルランド茶商業会社』を設立し、現在も、Robert Robertsの名のもとで事業が行われています。この会社は、また、他社のブランド商標(その株も)を受け継ぎました。例えば、McGrath Bros.です。当時倒産しかけていた「Coyle Ltd.」「Becker Bros.」「 Owens & Co.」は合併し「Allied Teaブレンダー」となりますが、その数年後、会社は整理されまし。 このなかで、特に重要な事は、Owenはアイルランドでの、ティーバッグの先駆者だったことです。「Geogory Owen」は、合併の前に亡くなりましたが、常にティーバッグが今後茶市場を支配すると公言していました。当時、全ての人がそれをあざ笑ったのですが、実は、彼が正しかったのです。彼は、彼自身の夢が現実になる事を見ることなく、この世を去りました。ティーバッグは、現在市場の90%を占めています。 会社倒産の主要因は、価格競争ではありませんでした。品質だったのです。茶の品質を維持し、向上させていた会社は、たとえ価格を下げなくとも、ビジネスとして起動していました。しかし、価格を押さえるために、品質を下げた会社は、結局は市場から退くことになったのです。しかし、アイルランド人は現在も、最高品質の維持を主張してはいますが、その購入方法や茶の入れ方は、このニ半世紀の間に、大きく変化しました。

『パケットティー』の台頭:

第二次世界大戦以前、ブランド茶は、アイルランド市場のたった10%でしかありませんでした。ティー・ショップでは普通、チェスト又はその他の単位で、卸会社から茶を購入し、そして、店のオリジナル名で、店頭でそれぞれ販売していました。(『いつものですか、奥様?』) またそのうちのいくつかは、まったくブレンドされず、チェストから取り出したままの、『ルーズ・リーフ』の状態で販売していました。この理由には、茶葉の外観が、当時大変重要であり、一枚一枚の輝きは、客を惹きつけ、間違いなく購入へと導いたことがあります。しかしながら、利口なアイルランド国民は、必ずしも美しい外観の茶葉が、おいしい茶となるとは限らないことに気づき、このため、急速にブレンドされた茶がその販売量を上げ、ルーズリーフ茶市場は、減少してしまいました。

「J Lyons&Co」(アイルランド)は、パケット・ティーの先駆者でした。戦後、茶市場におけるその会社の株式は、急速に上昇しました。これは、意欲的な広告と国全土にわたる非常によく計算されたセールスによるものでした。1962年までに、「Lyons」は独占的な地位にのぼりつめ、それは全市場の16%に及びます。1965年には、25%を超え、1973年には45%、そしてその翌年には50%を超えたのです。この数値は、現在もまだ維持されています。パケット・ティーの流行は、スーパーマーケットの到来によって加速したといえます。1961年以降、何店ものスーパーマーケットが、国中至るところに開店し、ここでは、パケット・ティーのみが販売され、「Lyons」はこれらの全ての利点を得ることが出来たのです。

国民の嗜好の変化:

1960年までは、アイルランドにおける、高品質茶の大半は、アッサムのオーソドックス製法茶でした。Lyonsは、そろそろ、新しい製品を開発し、人々の好みを触発する時期だと感じました。フレーバリー・ティーがスリランカ(後のセイロン)から紹介され、新たなブレンドに加えられました。これまでは、このタイプのように、香りのつけられた茶は受け入れられていませんでしたが、明らかに、消費者の一部では、この新しい茶、ブレンドに香りが含まれているもの、に対して、受け入れる環境が出来ていました。ケニヤ茶発展協議会(KTDA)が発足すると、リフト渓谷の東岸に茶工場が建てられ、ここで、高品質のアフリカ茶が生産され始めました。そして、この茶が、とくにアイルランドの水によく抽出される、ということが分かり、Lyonsは、これを自社ブランドに加えたのです。最初は、それらの茶はRAGATI工場のオーソドックス・ティーでしたが、KTDAがさらに多くの工場を建設し、また、製造方法の大半をCTCに変更し、Lyonsは他の東アフリカ諸国のものも含め、これらの新しい茶を自社ブランドに使用しました。

東アフリカの茶を試験的に使用したのは、Lyonsだけではありませんでした。家族経営のBarry‘s、(もともと、コークのプリンス通りに高級食料品店を経営していた会社)は、自社の紅茶を他の社のものと一緒に販売していましたが、高品質の東アフリカ茶に着眼しました。そして、このことは、国民が『新しいタイプの茶』を認識することになり、その売上を急速に伸ばすに至りました。Lyonsが東アフリカ茶を、ブレンドの一部として使用するのに対し、Barry‘sは、『徹底的にやる』ことに決め、ほぼ100%東アフリカ茶を自社のパケット・ティーに使いました。セールスが飛躍的に伸びるに至り、Barry‘sは、事業を茶に集約することに決めました。セールスの拠点は主に、コークと南アイルランドに集中していましたが、1970年代80年代の急成長に伴い、それは全アイルランドに広がり、市場シェアは28%から30%になりました。これは、Lyonsに次ぐ第二位のシェアです。東アフリカ茶に着手した少数の茶会社だけが、生き残り、これらで現在のアイルランド茶市場を占めています。

ティーバッグの利点:

1960年から1970年までの間、ティーバッグは主に、ケータリング業界に限られていました。たった一つの例外は、大戦以前からの、業界先駆者であったOWENSのティーバックでした。1970年までには、次第に、国内ブランドのティーバッグが、登場してきましたが、それでも市場の5%以下でした。1972年、Lyons(当時市場の40%以上を支配していた)は、国内ティーバッグ市場に入る時期だと判断しました。ここ、一番最後にティーバッグに取り組んだ会社となります。それまでは、ティーバッグに使用される茶葉の品質は、並のものでしたが、多くの紅茶会社は、ティーバッグの茶葉の品質は、パケットティーの中でも、一番低くてよいと判断し、消費者の受け入れ具合を確かめようとしました。しかし、この直後、反応は非常に顕著でした。

茶業界全体を巻き込み、パケットティーの売り上げは激しく減少してしまいました。多くの国内ティーバッグブランドは売り上げ増大しましたが、それらは、高品質のものばかりだったことを見落としてはなりません。

アイルランドのティーバッグは熱密閉のもので、また、紐やタグ、個別包装といった付加的包装に対しての要求はほとんどありませんでした。これはおそらく、国民が不可的要素が包装に含まれるのはでなく、品質に反映することを好んだためでしょう。このことは、技術、デザインや形などの開発を促進させました。アイルランドでよく言われている通り、全ての発展がマーケット戦略にたやすく結びつく、包装などに重点がおかれていたのではなく、あくまでも、抽出液の向上を、目標としていた、ということは事実なのです。1973年、Lyonsはティーバッグのサイズを、より良く抽出されるように、約3分の1大きくしました。1989年には、ミシン目の入った紙、(小さな穴のあいた紙で、抽出力を向上させる。Perflo又はFreeflo(Lyonsはこちらの呼び名を好んだ)と呼ばれる。)が登場しました。1991年には、丸型ティーバックが登場し、これもまた、抽出力を高めました。

今後も、更なる技術的発展、発明が行われるでしょうが、しかし、アイルランドでは、品質向上においての発展でなければ、それは成功とはいえないのです。市場の傾向は、より高品質へ、より高品質へと向かっているように思えます。そして、私はしばしば、このように尋ねるのです。『果たして、これはどのようにして終わるのだろうか?そして、10年後には、世界はアイルランド国民を満足させる最高品質の紅茶を作り出すことが出来るのだろうか?』

文: Dennis Aylmer 彼の叔父と大叔父が茶栽培業者という、紅茶家系に育つ。1964年、ダブリンのJ Lyons&Co.(Ireland)に入社、ティーテイスターとして買付け部署に配属。1974年マネージャーとなる。1975年、同社重役となる。

本文は『TEA&COFFEE TRAE JOURNAL/vol.171/No.6 1999年6月号』より・・・

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