■ 第十六回 インド 特別編 ジャイプール茶園の Bruce Tea とは!

お待たせいたしました、インド アッサム紀行特別編、C.A Bruceが管理していた ジャイプール茶園の写真が手元に届きました。 以前アッサム ?で書いたように肝心なときにデジカメのバッテリーが切れそのうえもう1つ持って行ったカメラは、フイルムが切れると二重のアクシデントで私のカメラにはジャイプール茶園が2〜3枚しかなく同行した友人の写真を分けてもらうしか方法がありませんでした。ということでやっと2人の友人から送ってもらった写真をUPしながら この茶園と有名な、C.A Bruceのお話をしたいと思います。ではまず ブルース兄弟の話からしましょう。



C・A・ブルースの銅像
1823年当時ビルマの支配地であったアッサム地方に交易開拓を目的に東インド会社に許可をへて現地に入った ロバート・ブルースがアッサム北東部の丘陵地帯で自生の茶樹を発見したことからアッサム種の存在が知られるようになりました。実際は、マニラム・デワンから存在を聞き、ジュンポー族の首長 ビーサ・ガムに自生の茶の茶樹や茶種子の入手を約束したという説が強い。
翌1824年、第一次英緬戦争が勃発しブルースの弟が砲艦の指導者としてランプール方面に派遣された。(アッサム紅茶文化史 松下 智 著より)

その弟の C・A・ブルースの銅像です。(Charles Alexander Bruce)
紅茶の本によく、アッサムはブルース兄弟がアッサム種を発見しこれをインドアッサム地方でプランティーションをつくりアッサム紅茶が出来ました。というお話が良く出てきます。 (写真 磯淵 猛さんのHPより)



茶樹の碑
C.A.Bruce が管理していたインド最初の茶園、ジャイプール茶園の茶畑にいまも囲いの中に中国から運ばれた茶の種でそだった中国種の茶畑があります。

この1834年に輸入された茶樹の碑。これには(1837年に建立)カルカッタ植物園の園長ウォーリッチ博士とブルースの名前が刻まれている。
1833年に東インド会社は中国茶の輸入の独占権がきれそれまで否定的だったインドにおけ
る茶の栽培に力を入れ始めたそうです。インド総督のベンティンクが1834年中国茶導入のため茶委員会を設置その中のメンバーにウォーリッチ博士も委員に任命されている。 

その一方、1825年 C・A・ブルースはビーサ・ガムから受け取ったアッサム種を政務長官のデービト・スコットに送り彼はゴハティに、C・A・Bruceはサディアの自宅の庭にアッサム種の茶樹と茶種子を植えている。スコットがカルカッタの植物園長 ウオーリッチ博士に1825年茶葉と茶種子が届けられたそうです。 アッサム種、中国種 このころアッサム地方では両方の茶に樹が英国人の手によってインド産大英帝国紅茶を作るのにいろいろ展開されていたようですね!



ジャイプール茶園のマネージャーバンガロー
  ちょっと前置きが長くなってしまいました。私がこの仕事を始めたのが1988年 16年間の短い時間ではお茶の歴史を知るにはまだまだ時間が短いですがいま世界がだんだんグローバルになり色々な情報が開かれお茶の歴史が面白く情報が流れ出してきたと喜んでいます。
  きっとこのHPを見てくださる方で私と同じようにどうしてアッサムで中国種が!と思っていられた方も多いのでは?とおもいちょっとながい解説を書いてしまいました。

さて本題の” Bruce Tea ”の製造をしてくださったジャイプール茶園を紹介したいと思います。2004年4月に 名古屋のリンアンの堀田さんに紹介いただきお茶の友人たちと5名そして磯淵 さんの本でも名前が出てくる ガイドのポールさんと6名で行ったアッサムの旅(お茶の旅 アッサム T.U参考に)の時に訪れました。
ジャイプール茶園のマネージャーバンガローが奥に見えます。
ファクトリーから出たところに門がありそこからマネージャーバンガローに続いています。家の前には色々な花が飾られていてイギリスの時代が偲ばれます。



赤いシャツを着ている男性の前は今現在のジャイプール茶園のお茶を作るためのアッサム種の茶畑です。その前にある境界線からこの記念碑のまえの鉄条網までが囲まれている記念茶園で数少ないですが中国種の茶の木がいまも守られています。
時代が変わり茶畑のなかのお茶の木や紅茶の生産の仕方は変わってゆきましたがはるか昔中国から運ばれた茶の種がここに今も生存していると思うと感無量です。

昔の人の行動力は今のようにスピーディーに移動できる時代と違い大変な労力がいるのにお茶への夢や野望はとても大きかったことでしょう。



囲いの中にある茶樹は中国や台湾で見るような小さい茶葉の小葉種の茶の木です。
1833年、それまでに中国からの茶の貿易の独占権を失い解禁されてしまいます。そこでイギリス東インド会社は当時イギリス領だったインドで紅茶を生産しようと中国からお茶の種を輸入し、優秀な中国人製茶技術者を雇い入れ、インド各地に苗木を送って茶園開発を進めます。茶業委員会のゴードンが中国に派遣され茶の種子を収集しました。最初の実験茶園としてサディア近く作ったが失敗におわり、生き残りの茶のうち幾本かを当時軍の司令部があったジャイプール(Jaipur)に移植されました。

ブルースはアッサム茶監督官(1836年4月)として中国種茶樹栽培と平行してアッサム自生茶の調査・研究を単独で行っていたそうです。



ジャイプール茶園のマネージャー Mr. Sarkar

現在のジャイプール茶園のマネージャー、Mr. Sarkar です。手には4月3日に訪れたのでファーストフラッシュがすでに終わりかけていてマネージャーはファースト・フラッシュとセカンドフラッシュの違いを私たちに説明をしてくれています。横に白いシャツを着てたっているのはガイド兼通訳のPK・ポールさんです。お茶の研究にインドに行かれる専門家たちに何度も指名をうけインドのお茶に大変詳しいポールさんです。私たちより先に現地の言葉でお茶の説明がポールさんの頭に入り、私たちからの質問などもポールさんの頭の中にどんどんたまってゆき思わずポールさんにお茶の本を書けばいいのでは!!何てお勧めしたぐらい良くご存知です。

 

いまこの茶園では新しく芽がでたものも増やしていて歴史的なつながりのこの中国種も少しづつ増やしてこの茶園のなかにある中国茶の畑を維持していかれようとしています。

英国人が中国からお茶を輸入し始め国民的な飲み物となり欠かすことが出来ないお茶をなんとしてもこの当時治めていたインドが紅茶の栽培に適していると必死で始めたお茶の産地、アッサムでいま残された痕跡を維持してまた増やしていく、歴史を感じさせられる茶園訪問でした。




この鉄条網は行ったとき大変おどろきました。しかし帰ってきて改めて松下先生の書かれた「アッサム紅茶 文化史」を読み返すと英国紅茶でけでなく世界の紅茶の産地にとってもインド茶業は大変重要な試験産地で、ここアッサム地方、ダージリン地方が他にもインドのいろいろな場所に植えて試された産地の中でも重要な箇所だと改めて考えさせられました。ですからぜひ維持していただきたいと思いました。



撚捻しているところ

現在は人口萎凋機を使っているところが多いですがこの茶園は昔ながらの自然萎凋でお茶の茶葉の水分を60%〜70%程度にさせしおれて柔らかくなったところ撚捻します。
ここアッサムの萎凋棚は屋根がついていますが、普通中国、スリランカやダージリンのように室内ではありません。 

このような大量生産で通常ジャープール茶園ではアッサム紅茶を作っていますが、今回の
”Bruce Tea ”は昔ながらの中国から英国人が茶の技術者をつれてきて手作りを習い紅茶の生産を始めました方法で特別に作っていただきました。



ティスティングルーム
この部屋にはイギリス時代のWater Filter があり思わずきになり大騒ぎしてしまいました。どこまでも英国式の生活を持ち込む英国人魂にはあたまが下がります。
というのはダージリンの茶園のバンガローのキッチンにもあり水をこして使えるように中に釉薬がかかっていないフィルターが陶器ではめ込まれています。
製造は”ストーク オン トレント”、そうです ウエッジウッドやスポードなど有名英国陶器のふるさとです。遠いインドまで持っていく英国人のこだわりはすごいですね!!
   その気質が中国木や種を運んでまで紅茶をつくる計画をさせたのでしょうか??

英国ファンの私としては、誉めて良いのやら悪いのやら悩ましいところです。
ということで英国 東インド会社が中国種のお茶の木で作ろうとしましたがここアッサムでは同時に進行していたアッサム種の茶の木で作られた紅茶が 1839年1月10日のロンドン オークションで初の英国インド紅茶 8ロット 280ポンド(約80Kg)がせりに掛けられ高価格で落札されました。残念ながらこの木で作ったお茶ではありません。

ということで タイトルが「東インド会社が作ろうとした紅茶」というタイトルがつきました。 ぜひ はるか彼方昔のドラマに思いをはせてこのブルースティを召し上がってみてくださいね!!  今回はちょっと歴史の得意でない私が歴史を色々な本を参考に書きましたので長くなりごめんなさい!!



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